神域に触れる。郡上の外あそびの原点「阿弥陀ヶ滝」を巡る。
神域に触れることは、昔から受け継がれている自然と人との関わり方を知ることであり、郡上の外遊びの原点を知ることにも繋がります。
郡上での暮らしは昔から水とともにありました。
白山信仰では山そのものが神様で、その山々から生み出される水の恵みは農作物を育み、育ち、人々の暮らしをうるおしてきました。人々は自然に感謝し、畏れ敬い、人々の生活は常に自然とともにありました。その歴史や文化は郡上に暮らす人々の生活に根付き、今なお守り、受け継がれています。
郡上を「神域」と呼ぶのに忘れてはならないのが『阿弥陀ヶ滝』です。
白山を開いた「泰澄大師(たいちょうだいし)」が、女神様のお告げにより見出したとされる滝で、かつては「長滝」と呼ばれていました。
以来、この滝は修験道の行場として白山信仰における重要な場所として多くの人を集めました。
16世紀、白山中宮長瀧寺阿名院 道雅法印(はくさんちゅうぐうながたきでらあみょういん どうがほういん)が、滝の奥の洞窟で護摩祈願をすると、阿弥陀如来が現れたことから、現在の「阿弥陀ケ滝(あみだがたき)」の名が付けられたという伝説が残っています。
落差約60m。日本の滝100選、岐阜県の名水50選にも選ばれている東海一の名瀑「阿弥陀ヶ滝」。
その美しさから、江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎が「諸国瀧廻(しょこくたきめぐり)」のひとつとして「木曽路ノ奥阿弥陀ケ瀧(きそじのおくあみだがたき)」を描かれています。
また、阿弥陀ケ滝に至る遊歩道にある阿弥陀堂脇の句碑には、「虹を吐いて 夏をよせつけず 瀧の音」という大垣出身の俳人・花ノ本聴秋の句が刻まれています。これは、早朝の条件にあった時にだけに見られる、滝壺から虹が現れる光景を歌い上げたもので、聴秋の眼差しが鮮やかに感じられるようです。
とうとうと流れ落ちる滝の前に立つと、不思議と心が満たされていくのを感じます。
忙しい日常の中、知らず知らず疲弊したり波打った私たちの心に寄り添い、欲や業を見透かし、すべてを包み込んでくれているかのようです。
若葉、緑青、朽葉、銀鼠…。
季節ごと、時間ごとに違った色を纏い、はるか昔からこの場所で、人々を清め癒してきた阿弥陀ヶ滝は、まさに神域を象徴する場所といえるでしょう。